式内 三重神社
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概 要
社 号 式内 三重神社
式内社 丹後国與謝郡 三重神社
読み:みえ
江戸時代は「酒戸古神社」と称していた
所在地 京都府京丹後市大宮町三重字三坂谷133
旧地名 丹後国與謝郡
御祭神
御祭神 豊宇賀能賣命(トヨウカノヒメ)=豊受大神
相殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)
軻遇槌命(かぐつちのみこと)
興津彦命(おきつひこのみこと)
興津姫命(おきつひめのみこと)
例祭日 10月10日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造
境内摂社(祭神)
一口メモ
北近畿タンゴ鉄道丹後大宮駅、国道312号酒戸古交差点を北へ曲り、府道655号へ。500mほど進むと道沿いに三重神社の社号標がある。軽なら通れるまっすぐな参道を進むと神社。
三重(郷)は、和名抄で丹波郡であるのに式内社は与謝郡になっていることに気づいた。延喜式神名帳が編纂された平安期には与謝郡だったのだろうか?しかし平成の合併まで中郡大宮町で旧丹波郡であるので変更はないようだが。
歴史・由緒等
三重郷内の総社。
三重郷内の総社。「延喜式神社の調査」さんのよると、
かつては酒殿神 豊宇賀能賣命を酒戸古神社と称し、南方700mの竹野川が流れを北方へ変える谷間の河岸にあった。明治24年に酒戸古神社、三谷神社、諏訪神社の3社が三重神社として諏訪神社の地に遷座合祀。
丹後国中郡誌稿「三重神社由緒」には、
旧逆鉾神社は、延喜式に記載される式内三重神社で、その祭神は、酒殿神 豊宇賀能賣命であると見られる。
由緒徴証の一端は、「倭姫世記」に、酒殿神一座、和久産霊神之御子、豊字賀能売命なりと。佳い清酒を醸すとあり、「神楽歌」に、この神酒は誰の神酒、そあけにいます豊岡姫の醸します神酒とあるも、これ大神の御功績を賞賛せし確証なり。
三重神社の社 号をあやまって転訛した原因を探すに、足利将軍義輝の政権のとき、兵乱年を累て 神宮氏子も離散したために、本社の古典旧式もほとんど消失、社殿も破損し、境内雑草に覆われてしまい、酒所榊の音訛は口語に残りしかも。
江戸幕府の治世に至り、里の老人の口碑を文字にして酒殿、 酒樽、逆鉾と国音が似た方によって字義に不抱叨に数百年の星霜を経たりき。
往古より三重郷三重村字平尻に神佐備乍御鎮座なりしを、明治六年三月十日社格を村社に列せられ、明治二十四年三月同村小字小谷口村社諏訪神社へ同村小字三坂谷村社三谷神社と合併祭祀の許可を得て、同年九月九日旧三社ノ社 号を全廃し、更に三重神社ト改称し、豊宇賀能賣命を以て主神と尊崇すべき旨認可せられたりき。
旧三谷神社の祭神は軻遇槌命興津彦命興津姫命にして火食必用を守護の大神ニシて往昔より崇敬を重じ来たりしなりき。
明治六年三月十日村社の格に挙られき。旧諏訪神社は祭神健御名方命にして造国に功労ありし大神なること皇典にも顕然たれば信仰し来りしなりき。
古老は大内谷小字宮谷ト云う所に凡二間に三間ノ白石あり此所に社頭ありしを嘉吉年間洪水ノ為に此霊石小字北垣迄転出し該地に留るに依って、此地に社宇を建築したるより地名ヲ御諏訪とも唱へり然るに寛政六年甲寅春現今の社域に遷座ありき 明治六年三月十日社格を村社に列せられたり各神威の尊厳なるを惶みつるになん(要抄)
≪丹後国中郡誌稿「三重神社由緒」より≫
「神詣」さんより
境内・社叢
社叢
一の鳥居・社号標 二の鳥居
拝殿 拝殿・本殿覆屋
手水鉢 境内社
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「神詣」さん、『延喜式の調査』さん
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